僕が下層の人間でなければ、初めて乗った車や初めて見る景色に、感動したり興奮したり
したのだろうか。しかし、その時の僕は、故郷から無理矢理引き剥がされた失意と、これから
どうなるのかという不安で頭が一杯で、屋敷までの道のりも景色も覚えていなかった。
車が屋敷に到着すると、男(少女に出会った晩、話をした妙な男だ)が僕を連れて
まず向かった先は……あの下品なジジイ、もとい当主の部屋ではなかった。
てっきりあの当主に挨拶をさせられるのだろうと思っていた僕は、なんとなく安心したが、
それではどこに連れて行かれるのかと、また不安な気分が戻ってくる。
それにしても、だいぶ歩いたはずなのに、まだ目的の場所に着かないのだろうか。
馬鹿みたいに広い屋敷だ――。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、屋敷の外れのほうだろうか。
僕が連れて来られたのは、機械油の匂いがする大きな建物だった。
これまでのところ、特になにも関心を持てなかった僕だったが、そこにあったものを見たとき、
それまでの憂鬱さもどこへやら、急に胸が高鳴ってくるのを感じた。
幼い頃から毎日空を見上げては、夢を誓っていたあの憧れの飛行機が、
すぐ目の前にあったのだ。そして、ここはあの飛行機の整備場なのだという。
僕の胸には、いままでに感じたことのない感情が生まれていた。
憧れに近づいた期待と、純粋な高揚感。
「お前にはいずれこの機体を操れるようになってもらう。そのための訓練を今日から始めるぞ」
「え?……本当に!?」
なんと男は、さらに僕が驚くことをさらりと言ってみせる。
まさか、こんな展開が待っているなんて……あまりにも出来過ぎているんじゃないのか。
これまでずっと期待を裏切られることに慣れていたから、こんなに都合の良過ぎる話に出会うと、
かえって疑わしく思えてしまう。
悪い癖かもしれないが、下層に生きていると、嫌でもそういう考え方が染みついてしまうのだ。
試しに頬をつねってみた、痛い。ちゃんと起きているぞ、夢ではないみたいだ。
「なにをしている」
「あ……いや、その、夢じゃないかと思って」
「どういう意味だ」
「あの晩、言ったでしょ、僕には夢があるって」
「覚えてはいるが。それが……お前の夢とはまさか、これのことなのか?」
そう言って、男は飛行機を指差した。
「そのとおり!僕の夢が今、目の前にあるってこと!!」
「そうだったのか。うむ。ならば、こちらとしてもなにかと都合が良いな。好んで取り組めば
それだけ覚えも早いはずだ。せいぜい頑張るんだな」
「はいっ!!」
「……だが、期待はしすぎるな。期待が大きいと、それだけ失望も大きくなる」
「……分かってるよ」
持ち上げられてから、叩き落とされる、まるでそんな感覚。
男にそのつもりはないのだろうが、僕は男のその言葉で、急に現実に引き戻された。
でも確かに、期待しすぎた時の反動の辛さも、失望する怖さも知っている。
なるほど、男の言うとおりかもしれない。浮ついていないで、しっかりやらなくては。
「それで、僕は今日からどうすればいい……んですか」
「口の利き方は、まぁ、俺に対してはその程度で構わん。だが、当主にはくれぐれも今のような
言葉遣いはしないように気をつけるのだな」
「は、はい」
「よし。では、まずここを案内して、一通りのことを見学してもらおう。今日は初日だからな。
寝泊まりはこの整備場の施設を使え。食事もそれなりのものは用意させよう」
「あの……皆のところには帰れないの?」
「それはできない。しっかりと仕事を覚え込むまでは、お前が仲間の元に帰ることはないと
思っておいたほうがいい」
「え……」
「夢、なのだろう?こんな機会は滅多にないと思うが。夢と仲間。秤にかけるなら、どちらだ」
仲間か、夢か。
どちらか一つを選べと言われたって、そんなこと、急に決められるはずもない。かといって、
悩めるほどの選択肢がないのも事実だけど、それでも、あっさり認めてしまうのはなんだか癪だ。
「意地悪な言い方だ……そんなの簡単に選べるものじゃない、です」
「かもしれん。だが、そんなことではこれからの訓練は乗り切れないぞ。甘えた考えは捨てろ。
まずは雑用、見習いからだ。技術屋の仕事を目で見て盗め。分からないことは素直に聞くことも
大切だ。とにかく集中して、結果を出してみせろ。そうすればいずれ、仲間の元にも帰れる日が
来るはずだ」
「……はい」
確かに、僕がずっと抱いてきた夢を叶えるなら、この機会が最初で最後のチャンスかもしれない。
それに、男の言葉を信じるなら、一日も早く仕事を覚えられたら、また仲間や爺さんに会える。
当分の間は帰れそうもないけど、頑張るから。だから、皆、爺さん、元気でいてくれ……!
そして、翌日から早速、厳しい訓練が始まった。
まともに学校に行ったり、勉強をしたことがないなど、あらゆる意味で標準以下の僕にとって、
それは想像を絶する日々だった。毎日、朝早くから夜遅くまで、覚えることは膨大だったし、
理解するにも人一倍時間がかかる。
少しでも失敗があれば、訓練が終わる時間になっても、きちんとこなせるようになるまで、
繰り返し、同じ作業をする。
食事は日に決まって二度用意された。これまでの生活を考えれば、食べ物に不自由しないことは、
なによりありがたかったが、訓練を終えて疲れ切った体で部屋に帰れば、それさえもそこそこに
眠りにつく。
そういった日々が、数え切れないほど続き――。
作品紹介
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大きな影が爆音とともに、頭上を駆け抜けていく。
灰色がかった白線を空に残しながら、一機の飛行機が空の向こうに消えていく。
その姿を眺めることがいつからか、幼ない少年の日課になっていた。
少年は、そうして空を眺めることが大好きだった。
『空のそらと、風のうた』~episode:16 -ふたりの息子-
ザッ、ザッ、ザッ。
少し離れた場所から、規則的に音を刻む足音が聞こえている。
こちらに向かっておるようだな。数は……一人か――。
「……武器をしまってくれ。俺だ」