屋敷にたどり着くまでの間、僕は僕自身に何度問いかけただろう。
これから自分がしようとしている、そのことの意味を。もし失敗すれば確実に消される。
そうなれば爺さんも助からない。これからやろうとしていることは、そういうことなのだ。
それでも、行くのか。僕に、その覚悟があるっていうのか。
そろそろ屋敷にたどり着こうかという頃になっても、結局はっきりとした答えを出せずにいた。
それでもこの足は、一歩一歩、確実に屋敷へと歩みを進めている。
だったら、今はこの足を信じるしかない、か。
それだけを決め込むと余計な考えを捨て、真夜中過ぎ、僕は屋敷に忍び込むことを決めた。
ここに飼われて働くことは、待遇やあてがわれる仕事内容からしても、決して喜べるような
ものでもなかったが、今だけはそれを感謝した。
見回りの数と時間帯、開けやすい扉、危険なところなど、それなりに長い間働いてきたおかげで、
屋敷の仕組みも、それなりに把握できている。
その上、月の光をさえぎる雲、雲。
めずらしく天まで味方についていてくれる気分になり、僕は狙った扉の鍵穴に針金を差し込む。
カチリ、と音がして、錠前が開いた。けれど、注意が必要なのはここからだった。
この扉は鍵が開きやすい代わり、かなり古いため、開ける時にギィギィと派手な音を立てるのだ。
僕は、予め整備場から盗んできた機械油を懐から取り出すと、蝶番にたっぷり垂らして、
その後しばらくの間、待つ。その時間、およそ数十秒。
だが、こんな時にはそのわずかな時間も、数分、数十分にも感じるものだ。
逸る気持ちを抑え、少しは状況がマシになることを祈りながら待つ。そして――。
「よし、開けるぞ……」
様子を見ながらゆっくりと扉に手をかけると、キ、キ、キィー、といつもより弱い音がした。
「……っ」
神経を張り巡らせながら、辺りを見回す。誰もいない。
地面に耳をつけて確かめてみたが、近づいてくる足音もないようだ。
安心して扉に視線を戻すと、扉は思ったよりも音を立てないまま、すでにぽっかりと真っ黒な
口を開けて、僕を誘っているように見えた。
だが、簡単にこの誘いに乗ってはいけない。ここはただの第一関門に過ぎない。
僕は屋敷の地図を頭の中に描いて、どう動けば安全か、効率的かを何度も思い浮かべてみた。
……あとは、動くだけだ。そうしてようやく、僕は扉の誘いに乗ったのだった。
――が。
まったく、現実は想像とは違い、なかなか思うようにはいかないものだ。
あれほど屋敷に入る前に、頭の中で何度も作戦を立てていたはずなのに、今の僕はまったく
見覚えのない場所に立って、そして途方に暮れている。
確か、薬品類が置いてある部屋はこっちだったはずなのだが……。
目印と言えば、唯一、薬部屋のすぐ近くに飾ってある東洋のものらしい黒い甲冑ぐらいなのだが、
こうも薄暗くては、それすら見つからない。
あげく、入口への通路まで見失っているときていて、早くもあまり芳しくない状況である。
「なんであんな真っ黒い鎧なんか飾ってんだよ、悪趣味なジジイが。普通の甲冑ならぎらぎら
光っていて見つけやすかったのに……」
無意味に毒づいても仕方のないことだと分かっていても、言わずにはいられない。
けれど、入りこんだ以上は、爺さんのために目当ての物を持ち帰らなければならない。
このまま呟いていたら色んな意味で危険なので、思い切って動くことにするが、それにしても
この屋敷の広さが恨めしい。
こうも暗くては、どの通路をどちらに曲がったかなど、方向感覚も乏しくなってしまう。
周りに気を配りながら歩いていると、ふと通路の向こう側から、誰かの足音が聞こえてきた。
この辺りの見回りの時間なのだろうか。隠れる場所は……ない。絶望的なまでに、なかった。
物置でも、掃除用具入れでもいい、汚くても構わない!……と必死に周りを見回したが、
それすら見あたらない。どうする。このまま通路を歩いて来られたら、見つかってしまう。
「……まずい、どんどんこっちに来る…頼む、来るな……っ!!」
心の中で必死に祈ってみるが、当然ながら、僕の望みを叶えてくれるものは誰もいない。
思い切って引き返そうかとも思ったが、来た通路に戻るためには、扉を開けなければならない。
この扉がまた、入口の扉よりも個性の強い一癖をもっていて、開ければその音でばれてしまう
危険性が高いため、見回りがずいぶん近くまで迫っている今、明らかにそれは得策ではない。
仮に、扉を開け逃げたとしても、僕の存在が知られれば確実に追っ手の数が増え、余計に騒ぎを
大きくするだけだ。
徐々に近づいてくる足音と、万策尽きた現実に、なんとか抑え込んでいた恐怖が爆発するように
膨れ上がり、すっかりすくんだ足が少し後ずさったとき、腰のあたりほどの高さだろうか、
通路に沿って備え付けられている飾り台にぶつかってしまい、そのはずみで、上に飾られていた
クリスタルのチェスの駒をいくつか倒してしまった。
「……ん?なにか、物音が」
なんてことだ。まさか、自分でおびき寄せるような真似をするなんて!?
まだなんの目的も果たしていないっていうのに……それなのに、もう終わりだっていうのかよ。
僕がたてた音に相手も警戒したのか、急に足音を忍ばせるようにゆっくり歩いているようだった。
しかし確実に、僕のいる場所へと近づいてきている。このままでは、見つかるのは時間の問題だ。
万事休す……か。
今のところ見つかる可能性は極めて高いが、そうなった時はどうしよう。
通用するかどうかは分からないが、帰ろうとしたら迷い込んだ、と言い訳でもしてみようか。
一応、僕だってこの屋敷で働いているんだから。
もっとも、僕が屋敷内で仕事をすることなどあまりないから、それを知る者に出会ってしまえば、
すぐにばれてしまうだろう。それでだめなら、その時はその時だ。――覚悟、するしかないか。
深呼吸一つ二つ繰り返し、足音がこちらへ向かってくるのを息を潜めて、待つ。鼓動がうるさい。
直線距離で言えば、ほんの数メートルくらい、それぐらいまで男が近づいてきているはずだ。
あの角を曲がられたら……お終いだ。
「……っ」
目を固く閉じ、身を縮めて、その時を覚悟しようとした、そのとき――。
「おい!お前!」
「!!(うぅ……)」
「おう、どうした、そんな大声を出して。なにかあったのかよ」
「?(僕、じゃない……?)」
「あぁ、今日は晩餐会が開かれただろう?その後片づけに、見回り組も駆り出されることに
なったようだ。だから呼びに来たんだよ」
「おいおい、勘弁してくれよ……なにが悲しくて、俺達が馬鹿騒ぎ共の後始末なんぞしなきゃ
ならんのだ」
「まぁ、当主様直々の命令のようだからな、とにかく今夜はこの場所の見回りを全員集めろ、
とのことだ。逆らうわけにもいかん」
「当主様がねぇ……今日の晩餐会で、ドジ踏んだ奴でもいたか…?」
「さぁ、多分居ないとは思うが……当主様に呼ばれるだけで寿命が数年は縮むぜ、ったく」
「分かった。それじゃあ、ついでだ。一緒に会場に向かうか」
「……だな、遅れて機嫌を損ねてもマズい、早めに集まっておいて損はないしな」
僕は、神様など信じたことはない。それどころか、いると思ったことすらない。
だけど、今この時だけは信じても良いと思った。そのくらいこの幸運に感謝し、そして、
心の底から安堵した。
「た……助かったぁ……」
辛うじて立っていた場所にへたり込むと、すぐ近くまで来ていた足音と、もう一人の男の
足音が遠ざかっていくまで、そこに座り込んでいた。腰が抜けて動けなかっただけかもしれない。
生きた心地がしないとは、まさにこの数分間のことだったし、今度は生き返るようだ、という
感覚を体中で味わっている。
その両極端な感覚に感情がついていけず、ため息と一緒に、どっと疲れが押し寄せる。
だが、それでも助かったことに変わりはない。
それも、この辺りの見回りは、どうやら別の仕事に駆り出されていると言っていた。
ということは最低限ここでの安全が確保できた、とも言える。
そう思うと、少しだけ心も軽くなり、ようやくなんとか立ちあがることができた。
ただ、いくら誰もいないはずだと言っても、今後どうなるかはまた別の話だ。
どのみち、いつまでもここで、ゆっくりしているわけにもいかない。
未だガクガクと震えて力の入らない足を叩き、頬を叩いて、再び歩き始めることにした。
また誰かに出くわしたりしないか、トラウマになりかけた感覚に嫌な汗をかきながら、
手探りでしばらく歩いているうちに、なんとか少しだけ見知った場所に出ることができた。
「えーっと……あ、ここは調理場、だな。だとしたら、確かこの先の部屋を三つぐらい
通り過ぎて、次は、そう通路を左に曲がってすぐ、だったか……よし、なんとかいけるぞ」
見回りの数と時間帯も把握できる場所にたどりついた僕は、ほんの少し張り詰めた緊張の糸を
解くことができた。ここからは記憶を頼りに、どうにかたどりつけるだろう。
一つ目の部屋、これで二つ目……次の部屋を通り過ぎたら、左に曲がってすぐ……ここだ。
薄暗くてよくは見えないが、部屋のプレートをよく見ると『薬部屋』と書いてある。
ここには高価な薬が数多く置いてあるが、貴金属や宝石の類ではないためか、彼らにとっては
ただの消耗品だからなのか、扉には鍵がかかっていない。これも僕にとっては幸運なことだった。
どれだけ早く目的を果たして退散できるか、その時間が成功か、失敗かの明暗を分けるだろう。
「よし……あった。夜の屋敷なんて入ったことないから、こんなに暗いとは思わなかったけど。
うん、分かりやすいところにあって良かったな」
そうして、紆余曲折ありながらも、実質的には特に危険な目に遭うことなく、薬を手に入れる
という目的は無事に果たした。あとは帰るだけ。
だけ、というが、それがこの作戦の最終目標だ。帰り着くまでは、決して気を抜けない。
入口は……さっき来た道を戻って、あとはいつも通る通路を行けばきっと大丈夫だろう。
見回りに気をつけて、さっさとここから退散することにしようと意気込んだ。
作品紹介
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