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ガード下の靴磨き (1955年・昭和30年)歌:宮城まり子

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作品情報

ジャンル ポップス
参加形態 単独
公開

作品紹介

2019年4月21日、京都でてこいランドで開かれた山菜祭り。
午前11時過ぎに、参加者は京丹波町、京都でてこいランドの敷地内にある自然豊かな野山で山菜狩りに出かけました。
がらんとしたホールには、数名のスタッフと、山菜採りに行かなかった数人の人が残りました。時間に遅れて参加した人も入ってきます。
そんながらんとした屋内のステージで、皆が山菜採りから戻るまでの2時間ほど、一人で歌っていました。
ちょうど皆が戻ってきはじめたころ、取材に来ていた新聞社の記者の人に声をかけられ、でてこいランドのことをいろいろ聞かれて、取材に応じた。
皆が持ち帰った山菜を中心に、いろいろ天ぷらであげて、おいしく頂きましたが、僕はステージの段取りがあるので、口には出来ませんでした。
セルフの箇所は。目の前に座って聞いていた女の子にむかって話しかけたので、こんな感じになりました。

***

宮城まり子さんは、幼くして母親・弟と死別するなど、辛い少女時代を送りました。昭和25年(1950)に歌手デビュー。
昭和43年(1968)、静岡県に肢体不自由児の養護施設「ねむの木学園」を開設。以後、肢体不自由児教育に一身を捧げる。
作家・吉行淳之介の人生のパートナーとして、強い絆で結ばれていたそうだ。

この歌の制作年度から、敗戦後10年を経ても、なお靴磨きをしている戦災孤児がいたことがうかがわれます。戦争が終わると、空襲などで親も家も失った戦災孤児たちが、街にあふれました。彼らは、生き抜くために、靴磨きや露店の手伝い、女の子は花売りなどをして、その日その日をしのぎました。そのなかには、小学校入学前の幼児もいたといいます。(二木紘三の歌物語から抜粋)

別のサイトで読んだのですが、作詞家の人は、この歌詞を描くにあたり、実際にガード下まで行き、靴磨きをする人たちを観察したそうです。
いじめや不登校、虐待など、今日も子どもを巡る悲しい事件が絶えませんが、大人の勝手で子供たちや弱い立場の人たちは、ずっと苦しい思いをしてきたんですね。
***
1945年3月10日 東京大空襲 10万人死亡
下町の大部分焼き尽くすB29 300機。 国内最悪の被害。

広島市・長崎市への原子爆弾投下
 1945年(昭和20年)8月6日、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4か月以内に死亡した。
 1945年(昭和20年)8月9日、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死 亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。

学童疎開:1945年(昭和20)年東京大空襲直前の3月9日、政府は「学童疎開強化要綱」を閣議決定。全国で約45万人を超える児童が疎開。
*広島:集団疎開していた3年~6年の児童約9千人は9月~11月に疎開先から戻ったが、彼らには家族の死や食糧難が待ち受けていました。原爆孤児は2千~6千人といわれる。
*長崎:集団疎開はなかった。山里小学校では在校生1,600人 中1,300人、城山小学校では1,500人中1,400人の子供たちが犠牲となりました。

戦後の食糧難で、餓死者も多数出た。戦争孤児も多数に上がったが、生活苦から、親に捨てられた子どもも多数発生した。
これを問題視したGHQが、食料援助と共に、NHKでラジオドラマ「鐘の鳴る丘」を作らせた。
脚本を手がけた菊田一夫自身も、幼い頃に両親を亡くし、親戚などを転々として苦労して育った人だった。

伊藤 明美

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