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五木の子守歌/放送禁止歌/熊本県球磨(くま)郡五木村民謡/5月22日のライブから

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作品情報

ジャンル フォーク
参加形態 コラボ
公開

作品紹介

5月22日に沖縄の歌を歌うことになって、いろいろネットで調べていたんですが、
ふと日本の民謡も調べてみようと軽い気持ちで富山県のこきりこや東北、北海道、和歌山などの民謡も調べたり、聞いてみたりしていました。
その中で有名な熊本の民謡「五木の子守歌」や京都の「竹田の子守歌」が、放送禁止歌として、長くテレビなどで規制されていたという話に出会って、素朴に「なぜ?」と思いました。

子守歌には、赤ちゃんを寝かせるための子守歌と、守子歌といって、幼い子供の労働歌、嘆き歌という種類があるそうです。
「五木の子守唄」は、守り子唄のひとつだったのです。
子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌だそうです。
かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、「口減らし」のために、他家に子守として預けられることが多かったらしい。

『伝承によれば、治承寿永の戦いに敗れた平氏一族が五家荘(八代市)に定着したので、鎌倉幕府は梶原氏や土肥氏など東国の武士を送って隣の五木村に住まわせ、平氏の動向を監視させたという。
その後、これら武士の子孫を中心として「三十三人衆」と呼ばれる地主層が形成され、「かんじん」と呼ばれた小作人(名子小作)たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで旦那衆から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。
娘たちも7~10歳になると、地主の家や他村へ子守奉公に出された。五木の子守唄はこの悲哀を歌ったものである。

五木村では、戦後の農地改革まで、その生活が続きました。
名子たちの生活は厳しく、子供たちは7、8歳になると、食い扶ち減らしのために奉公に出されたそうです。
奉公とは名ばかりで、「ご飯を食べさてもらうだけで給金はいらない」という約束だったともいいます。』

改めて歌詞を聴くと、とても悲しい言葉が続きます。
「五木の子守歌」は、こんなにも悲しい歴史ととともに、歌い継がれてきたのですね。

コンサートでは、細井さんのボーカルが聞かせてくれます。
ギターはtottoです。

五木の子守歌は、近在の土地にも、似たような節回し、似たような歌詞でいくつものバージョンが無数にあるそうです。
なもなく貧しい多くの少女達が、方々に奉公に出され、少しずつ変化しながら伝承されていったのでしょうね。

いくつか歌を聴いてギターのコードとメロディを取ろうと思ったんですが、なかなかうまく採譜できなくて、知っているという人に話を聞いたり、譜面を見せてもらったりもしたんですが、あるメロディ譜は三拍子、民謡を勉強されていた方の譜面を見せてもらうと、2/4拍子。4/4拍子のものもある。
かなり混乱してしまいました。
とりあえず、3拍子に合わせて歌おうと決めて、何度も拍子を取りながら歌って覚え、それを細井さんに口伝えで練習しました。
2人での練習は一度だけだったので、本番はちゃんと歌になるか心配でしたが、細井さんがほぼ“ちゃんと”歌ってくれました。

ほんと、いつもこんな感じで、綱渡りでコンサートをしています。

*治承寿永の戦い
平安時代末期治承4年(1180年)-元歴2年(1185年)にかけて6年間の大規模な内乱
古代最後の内乱であり中世最初の内乱
源平合戦とか源平の戦いとの呼ばれる。

2018年1月28日(追伸)
2017年8月10日から家族旅行で山口県を回りました。
4時45分に自宅出発
11時50分に宇部市東岐波の砂浜で、カブトガニの死骸を発見。最近はほとんど見られないそうです。
16時に下関到着。水族館「海響館」でイルカショ-を楽しむ。
佐々木小次郎と宮本武蔵が決闘した巌流島も近く、そして、源氏平家の戦い壇ノ浦も近く、すぐ近くに九州が見える。
この戦いに敗れた平家の一部が、五木村の近くに定住し、監視するために源氏の一団もそばに住み。
やがて33人衆という地主集団を作り、第二次世界大戦が終わり、マッカーサーの農地改革まで、地を這うような苦しい生活を強いられたのかと思うと、言葉になりません。
家族旅行は、萩やウサギ島、厳島神社など盛りだくさんで、嫁さんの指示に従って車を運転する僕は、大変でしたが、子供と嫁さんは、満足したようです。

青田 幹

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