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笑顔のむこうに

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作品情報

ジャンル フォーク
参加形態 コラボ
公開

作品紹介

1992年(平成4年)4月、長崎から一人の少女が京都にやってきました。
彼女は4年間、京都の大学で福祉の勉強をするためにやってきました。
大学に入るとすぐに、障害のある人たちと交流するボランティアグループにも入りました。
勉強もコツコツとがんばり、ボランティア活動にも積極的に参加、中心メンバーとしてみんなを引っ張る存在になっていきました。
卒業と同時に、大学でほんの数人しか合格しない国家資格も取りました。
念願の福祉施設に就職、就職してからも勉強を続け、その後の数年間でいくつかの国家資格を取りました。
お父さんはいのちの大切さを説いて全国を回る説教師をされていました。幼い頃からお父さんの背中を見て育った彼女は、お父さんから強く影響を受けたことでしょう。まさに、福祉の仕事が天職といえる人でした。
若手の社会福祉士として、また成人後見人制度がスタートすると、いろいろ相談を受けることもあったようですが、忙しい中、わからないことはきちんと調べて、その都度、丁寧にアドバイスを送っていたりもしていました。
ボランティアサークルの仲間だけでなく、施設の入所者、大学時代や地元のクラスメイト、クラブの後輩、もちろん家族からも慕われ愛される人でした。
人前ではいつも穏やかな微笑をたたえ、笑顔のかわいい女性でした。
といっても、寝起きは機嫌が悪く、サークルの合宿とかで、寝起きにちょっとした悪戯をしたりすると、普段とは違い、ひどく怒ったりすることもありましたが、すぐにいつもの彼女に戻りました。

子供の虐待、子殺し、親子心中のニュースが耐えません。重いハンディを抱えて地域で暮らす子供やその家族だけでも、毎年全国で数十件の子殺し、親子心中が発生していると聞きます。
僕たちが活動するサークルの仲間からは、そういう人を一人も出さないようにしよう。お金持も力もないけど、お話を聞いてあげることは出来る。悩みを聞いて一緒に悩んであげることは出来る。何にも出来ない私たちだけれど、わかってくれる人がいる、一緒に悩んでくれる人がいる。・・・曽於思えるだけでも、ご本人や家族の方の力になる。
ボランティアサークルではいつもそんな話をしていました。

ハンディがある人も、小さい子供でも、お年寄りでも、妊婦さんでも、事故でけがをして一時的に大きなハンディを持った人でも、みんなが当たり前に暮らせる社会を作ろう。ちっぽけな僕たちだけど、そう信じて言い続けていこう。社会を、社会の意識を変えていこう。

そんな話をすると、もう耳にたこができた、と言う仲間もいましたが、彼女は僕のそういう話に共鳴し、いつも熱心に聞いてくれていました。それだけでなく、自分自身でも、仕事を通して、そういう社会を作っていこうと理想に燃えていたようでした。だから社会人になっても、そのために必要な資格を取ろうと、熱心に勉強も続けていたのです。

そんな彼女が大きな問題にぶつかったのは、老人施設に転職してからでした。
そこで働く中で、ケアマネージャーの資格も取りました。地域のお年寄りのために仕事をするようになっていました。

6年前の8月3日、深夜0時5分
今でもはっきり覚えています。
突然自宅の電話が鳴りました。
ボランティアの活動をしていたので、学生とか、こんな時間に電話してくることにはなれていましたが、その時はなぜか「すごく恐ろしいことが怒るようで、電話にすぐに出れなかった。出来ることなら電話に出たくないと思った。」
長崎の彼女のお父さんからの電話でした。

マンションの3階から、頭から転落しました。急いで彼女が収容された日赤病院に向かいました。
病院に着くと、そこには穏やかに眠っているような彼女が横たわっていました。
自宅に遺書がありました。

彼女のパソコンを開き、職場の施設長や職員とのとのメールのやりとりを読みました。
施設では、恒常的に不正請求を行っていたのです。
しばらくして、その施設の別の職員からもその話を聞きました。
彼女は、そういう不正行為がばれると、施設の認可が取り消され、そのことで利用者のお年寄りの方たちに大きな迷惑をかけてしまうことをとても危惧していました。
メールの中で不正行為はすぐにやめてくださいと訴えていました。

その施設でそんな疑問を持ったのは彼女だけだったのだろうか?
彼女は職場の中で、陰湿な虐めや業務妨害に悩まされるようになりました。
そのストレスで、何度か吐血するまで苦しんでいました。

彼女のために何かしてやりたい、そう思いながら、今年で7回忌になります。
ご両親は、彼女が亡くなった後の施設や、施設長の対応に強い不信感を持っておられます。
大好きだった京都で、天職だった福祉の仕事が原因で、「なぜ?」娘が死ななければならなかったのか。
ご両親はいまだに答えが見つからず、時間が止まったままのようです。

当時の同じ職場の職員に、お話を伺いたいと、ほそぼそと取り組んでいますが、今のところ拒否され続けています。
露骨な虐めをしていた職員とは、一度話をする機会がありました。
その場にはお父さんも来られましたが、虐めはきっぱりと否定しました。
悪いのは、すべて死んだ彼女の責任だと言い切りました。
その後は一切の接触を拒否しています。

あの施設では、今も不正を続けているのだろうか。たいした疑問も、罪悪感も持たずに今も職員は同じ古都を繰り返しているのだろうか。
あの施設長は、不正が表面化しなかったことでほっと胸をなで下ろしているのだろうか。
何事もなかったように日常が続いていきます。

7年たって、はじめて書いた彼女への追悼歌です。
長くなり、申し訳ありません。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

9月5日 知恩院近くのギャラリーで開いたコンサートの時の音源です。

青田 幹

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