僕は未だ屋敷の中で、再び帰る道を見失い、右往左往していた。
いくら暗いとはいえ、ここまで方向音痴っぷりを発揮してしまう自分にかなり泣けてくる。
屋敷内には所々、薄明かり程度にかがり火が灯されているものの、ついには見知らぬ場所に
出てきてしまっていた。
一瞬、目眩がして目頭を押さえる。……落ち着くんだ、焦れば終わり。
誰かいないかどうか神経を研ぎ澄ませてはみるが、ここも僕の知らない場所なので、いつどこで
見回りの人間に出くわさないとも限らない。
ここに来るまでに極度の緊張を強いられていた僕は、自己暗示の甲斐なく、焦りを隠せなく
なっていた。
そうしていつしかよほど神経が過敏になっていたらしい、ふと廊下の遥か向こう側から
かすかに人の声が聴こえる。
注意しなければ聞き取れないほど小さな声だった。が、どうやらそれは話声ではない。
よくよく耳を傾けてみると、どうも誰かが歌を口ずさんでいるようだ、僕の知らない歌を。
もっとも僕が知っている歌など、仲間が時々思い出すようにうたう歌くらいだが。
そういえばその歌うたいだったオジサンが言ってたな。歌うと故郷や家族を思いだすって。
僕には……僕が故郷と呼べるのは、あの場所だけだし、家族もそこにしかいない。
だから、思い出す必要もないし、歌うべき歌もなに一つ知らない。
その時の僕はオジサンの思い出話を聞きながら、美しく思い出せる過去を持っているオジサンを、
少しだけ羨ましく思った。
「……なに考えてるんだよ、しっかりしろ!」
まったく、敵地にいるというのに、ぼんやりと仲間やら歌なんかに想いを飛ばすなんて、
どうかしている。盗みがどうにか上手くいったからといって、気が緩んでいたとでもいうのか。
冗談じゃない。
道に迷っている上に見つかれば薬を持ち帰れないどころか、僕自身だってただでは済まないのに。
……それにしても。なんて綺麗な歌声なんだろう。旋律は切なげだが、妙に心に響いてくる。
少し迷ったが、どうしてもその歌が気になってしまった僕は、声のするほうへと歩き始めていた。
もちろん、誰かいないか、誰も来ないか、気配だけは探りながら。
廊下など建物の作りは僕の知っている場所と同じだったが、暗闇の中では随分と長く感じられる。
どれくらい歩いただろう。
長い長い廊下の暗闇の向こうに、ようやくうっすらオレンジ色の光が滲みだしているのが見えた。
さっきの歌声は、どうやらあの部屋から聴こえているようだ。
僕は忍び足のままで部屋の傍まで行くと、扉の覗き窓から姿が見えないよう少しかがみこんで、
それから目を閉じて、その美しい声に耳を傾けていた。しばらくの間、そうしていた気がする。
そうしていつのまにかすっかり心地良くなった僕は、今日一日の仕事のためだけではない
疲れが一気に出たのか、あろうことか意識を飛ばしかけた。
そのせいで、袖に隠していた針金を落としてしまうという失態を犯してしまう。
カラン。
その音に、一瞬で目が覚め、一拍遅れてドキンっと心臓が飛び跳ねる。
心臓の音がうるさくて、その音で誰かに見つかるんじゃないかと思ってしまうくらいだった。
絨毯でも敷かれていれば、こんな音もしなかっただろうが、あいにく廊下は大理石でできている。
しかし、それほど大きな音ではなかったはずだが――
さっきからずっと聴こえていた歌が……ぴたりと止んでいた。
「気づかれた、か……?」
部屋の中からはなんの物音もしない。人の気配すらも……妙だな。
確かに、この部屋からあの歌声が聴こえていたはずなのだけど。
とにかく、誰もいないなら、それはそれで都合がいい、今のうちに急いで立ち去るべきだ。
眠りかけた頭を揺り起こして、気合を入れ直すために顔を少し両手のひらでパシッと叩いた。
「誰……誰か、いるのね」
「……(げ……しまった)」
今夜何度目の失態か数えることにもすでに疲れてきた。つまり、今の音で存在が知れたのだ。
扉の向こう側から、歌声と同じ儚げな声が聞こえて来る。やっぱりこの部屋には誰かがいた。
それも声の主は僕の存在をすでに確信しているような物言いで、こちらに語りかけてきている。
どうする、もう……誤魔化せないか?……一か八かだ。
「あ、あの、邪魔をしてごめん……僕は、あの、この屋敷で雇われている者なんだ」
「そう、なの」
「あ、あぁ、帰ろうと思ってたら綺麗な歌が聴こえて来て、それで、つい聴き入ってしまって」
「聴いてたの、ずっと?」
「あ、勝手に聴いて失礼だったね、ごめん。あの、僕そろそろ帰らなきゃ」
「こんな夜更けに、お仕事?」
「それは……まぁ」
「うそ。誰かに見つかったら大変」
「ま、待って!誰にも――」
しまった、こんな反応を返したら、自分で嘘を認めているようなものじゃないか。
どうしよう、どうすれば……と、最悪の状況を想像しながら、勝手に頭をフル回転させ始めた
僕の耳にさっきまでと変わらない、もの静かな声が聞こえてきた。
「言わない」
「……え」
「誰にも、言わないから」
「ど、うしてだい。いや、それは、あのすごく助かるっていうか、なんだけど」
馬鹿野郎。せっかくなんとかなりそうな雰囲気なのに、余計なことを言うな、この口め。
それでも彼女は、僕の反応など気にも留めず、変わらないトーンで言葉を紡ごうとしている。
それはあまりにも普通すぎて、かえって怖いくらいだった。
いっそのこと脅されたほうが、ある意味分かりやすいんだが……。
「そのかわり」
……やっぱり、そう来るのか。
その代わり――今までの経験上、その言葉に続くものに大体まともな要求はなかった。
けれど、なにを求められたとしても、今の僕は文句など言えた立場にはない。
なにを言われるのかと、恐ろしさもあるが、とにかく聞いてから考えるしかないだろう。
そう思って腹をくくると、少し明るい口調で言葉の続きを促してみる。
「代わりに……なんだろう?」
「……たすけて」
「え、え?」
さっきまでぼんやりとしていた声が、急に表情と意志を持つように。
そして、さっきまであの美しい歌を歌っていた声が、はっきりと、その一言を紡いだ。
その声は僕の耳にもしっかり届いていたが、一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
今、なんて。助けて、と言ったのか。
こんなに良い暮らしをしているのに、どうして……?
まともじゃない、というより、僕にとっては、まるで理解できない要求だった。
僕がその一言に混乱しているうちに、そっと静かに扉が開き、声の主が目の前に姿を現す。
その姿を一目見て、僕は息を呑んだ。
美しく整った顔立ちに、髪と瞳、豪華な服、あの歌声。
けれど、その姿のどこかに、ふと、なにかしらの違和感を感じる。
身奇麗にはしているのだが、もしかすると彼女自身が持つ素朴な雰囲気とはかけ離れた、
派手な服装や装飾品が、それを感じさせるのかもしれない。
すべてが確かにそこに在るはずなのに、触れようとすればすっと消えてしまいそうな、
そんな印象でもあった。
「や、やあ……」
「こんばんは」
「こ、こんばんは。あ、じゃなくて、さっきの君の言葉。助けてなんて穏やかじゃないな。
君はこんなに良い部屋に住んでいるし、良い服だって着てる。食べ物にも困らないんだろう?
歌だって素敵だ。きっと大事にされているんだろう。それなのに、君は自分のこと幸せだって
思わないのかい?」
最後に言った歌のことは、幸せとは関係なかったかもしれない。
けれど、こんなにも良い暮らしをしていながら助けてほしいなんて、一体なにを考えているんだ。
と、僕達の世界からすればあまりにも甘えた話に思えて、少し感情的になってしまっただろうか。
だが、僕の問いに対して返ってきた言葉はまるで予想もつかないほど、淡泊で衝撃的だった。
「どうして?良い部屋に住んで、良い服を着ていれば、大事にしてもらっているの?それは幸せ?」
「……え、あ。それは」
彼女は、僕の言葉が本当に理解できないという顔で、まっすぐ僕を見つめてくる。
それはこちらとて同じなのだが……それにしても、まさか、そんな返事が返ってくるとは。
思いもよらない無垢な反撃に咄嗟に応えることができずに、またも僕の思考は停止してしまう。
どんなに理解しようとしても、僕は僕の価値観しか持っていない。
だから彼女の言葉を正しく理解することができないのだ。
ただ、彼女が自分の境遇をあまり幸せに思っていないことだけは感じ取ることができた。
「あなた……あの時の」
「……え?」
「そらを、旅する――」
僕の顔をまじまじと見つめてから、彼女がぽつりと、そう言った。
しかし、あの時、とは一体なんのことだろう。
上流を暮らす彼女と、クズ通りで息を潜め暮らしてきた僕との間に、ほんのわずかほどの
接点もあるはずはないのだが……。それでも、彼女はどういうわけか僕を知っている。
なぜだ。いつ、どうして。
そう思案していると、彼女がまた一言、ぽつりと呟いた。
「一緒に、いこう?」
なんだって?
……今、なんて。
その言葉を聞いた途端に、僕の脳裏に、ふと、とある夜の光景がよみがえってくる。
僕はこの言葉を、前に一度聞いたことがある。それは確かだ。
あれは……この屋敷に来る前のはずだから、多分、四年くらい前のことだっただろうか。
あぁ、そう、冷たい雨が降る夜の――。
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