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じゅんこの夢

  • 27回再生

作品情報

ジャンル フォーク
参加形態 単独
公開

作品紹介

僕が障害児(者)と言われる人達と関わるようになったサークルの行事で最初に行ったのが京都の清滝という場所で、清流が流れるハイキングコースだった。
そこの比較的広い河川敷に降りて、ごつごつの岩や小石の上にゴザなどを敷いて、車いすなどで介助者と共に参加したハンディのある人達や、その家族の人達と昼ご飯を食べ、歌を歌ったり、ちょっとしたゲームをして遊んだ。
そこで初めて見かけたのがじゅんちゃんだった。
そのあと、毎月サークルで発行している手作りの雑誌を何冊か読んでいると、その中に、じゅんちゃんの家にボランティアの学生が家庭訪問したときに、手伝ってもらって書いた詩が載っていた。

じゅんちゃんの詩をみて、歌にしようと決めた。彼女の家まで行って、歌に出来るように詩を書き足した。
1980年-1990頃は、車イスの人が外出するのも大変だった。
繁華街に行こうと、バス停で待っているとバスの運転手に叱られる。
タクシ-に乗ろうとすると車イスを見ると素通りしていく。
無理矢理タクシーを止めて乗り込もうとすると、車に傷がつくとかシートが汚れるとか文句を言われる。
あからさまに嫌な顔をされる。

家族の人は、そんな社会の風潮に萎縮し、子供を外に出したがらなかった。
僕は「だからこそ、どんどん外に出なければならないんです。」、
「どんどん外へ出て、ケンカして、そして社会の理解を広げていけばいい。障害者だから外に出られない。人と同じ事が出来ないなんておかしい。障害があっても、誰でも人として当たり前に生きる権利がある。堂々と外に出るべきだ。」
僕がそんな風に息巻いても、家族の人が自ら積極的に、子供を外に連れ出そうという人は少なかった。

確か1992年だったか、京都市にリフトバスが初めて4台導入された。
たった4台だけだったけれども、やっと京都にもリフトバスが走り出した。
早速みんなに呼びかけて、リフトバスに体験乗車するイベントをした。
といっても、安全確保の観点から、車いすは1台のバスに2台までしか乗せられない。
いくつかのグループに分かれてリフトバスに乗ったが、京都市内で4台だけしか走っていないから、行きか帰りのどちらか片道をリフトバスに乗車、途中地下鉄に体験乗車、リフトバスに乗れないときは通常のバスに乗ることにした。

僕自身は、車いすの人のお家に遊びに行き、車いすの人と一緒に外出したときに、市バスに乗ることはそれまでもたびたびあった。
バス停で扉が開いたときに、近くの乗客や、一緒に乗る人がいれば、一声かけて、2-3人の人に手を貸してもらえば、車いすの乗り降りも可能だ。感覚的に、みんなで車いすを頭の上まで持ち上げて市バスに乗せるような感じになる。
家族の人は「とてもそんなことはできない」と、尻込みする。

リフトバスになれば、普通に車いすに乗れるようになるのだ。
障害者の人だけでなく、妊婦さんも、お年寄りも、けがや事故で足を怪我して松葉杖をついている人も、幼児を一人二人と連れて歩くお母さんにも、気軽に乗れるようになる。

リフトバスに初めて乗ったお母さんはとても喜んでいた。
「市バスに乗るなんて、いつからだろう…、この子が生まれて車いすに乗るようになってからは、リフトバスどころか、普通の市バスも乗ったことがない。」
驚いたことに、このときに初めて地下鉄に乗ったという人も沢山いた。

京都市の地下鉄は1981年に開通し、すでに10年以上経過していた。障害者団体などの運動もあり、地下鉄にはエレベーターが当然のように設置されている。しかし、僕が接していた重度障害児(者)とよばれる人達や,その家族にとっては、地下鉄は身近な乗り物ではなかった。
「こんな簡単にのれるの?」
障害者のお母さんは驚き、うれしそうに喜んだ。
「階段を使わずに乗れるんだったら、私でも乗れそう」
笑顔の輪が広がった。

鴨川の近くで昼食を食べ、僕たちのグループは、帰りは普通の市バスを使った。
観光シーズンでもあり、日曜日は市バスも混む。

何とか後ろの方に乗ったが、車いすで前までは移動できない。
何とか移動したところで、前の出口は、車いすのことは考慮されていない設計で、普通に降りることは出来ない。
学生が前に行き、料金を支払い、事情を運転手に話して普通に降りる。
僕は車いすの人と一緒に、乗客にも手伝ってもらって後ろから降りた。

その時だった、市バスの運転手が大声で口汚く悪態をつき、まるで僕たちが犯罪者でもあるかのように、烈火のごとく怒っている。

はじめ、僕には何事が起こっているのか、状況が理解できなかった。
僕たちが、「勝手に」後ろから降りたことが気に入らなかったらしい。
運転手が「前から降りんか、コラ!」と怒鳴る。
「車いすで前から降りられないでしょう?」と僕。

運転手はそのあと、二言三言捨て台詞を吐いてバスは走り出した。
僕はかなりむかついた。それまでとってもいい一日だったのに。

そのとき、そのやりとりを観ていた障害者のお母さんはぽつりと言った。
「やっぱり、わたしらはばすにのたらあかんねんなあ…。」

その一言に、「しまった…」と、思った。
運転手の名前を聞いて,控えておくべきだった。
バスナンバーをメモしておいても良かった。
京都市交通局に厳重抗議して、市バス運転手の再教育を要望するべきだったのではないか。

とっさに、トラブルにたいしてしっかり対応できなかった自分を悔やんだ。
その思いは、今も僕の胸の奥にとげのように刺さっている。

当たり前の生活をしたいだけなのに。

「じゅんこの夢」の詩を書いたじゅんちゃんは、当時普通の子なら小学校に通っていただろう。
まだ養護学校義務化前で、重度障害者という人達は、義務教育からも閉め出されていた。
「私も学校に行きたい!」と言っていたじゅんちゃんは、今も元気に笑顔を見せてくれている。

マイサウンドでも公開していた音源です。

青田 幹

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